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人生、本当に何が起こるか分からない。
自分一人だけで生きていく事ができる力を身につけておかなければ、その「何か」が起こった時に途方にくれてしまう。
人と人は支え合って生きていく。
確かにそれはそうだと思う。人は一人では生きられない。
でも、支え合って生きていく事と、頼って依存する事は違う。
その事に気付くのが、私は人よりもうんと遅かった。
思えば、比較的裕福な家に生まれて、何不自由なく育ち、高校も大学も私立の学校へ通ったが、奨学金など考える事すらせず両親が学費を払ってくれて、私はアルバイトもしないでのほほんと大学を卒業してしまった。
しかも両親には「就職活動よりも花嫁修業」と言われ、私は父親の口利きで父が勤める会社の子会社の事務員として、申し訳程度に働き、さっさと結婚してしまった。
恋愛に関しても、私がさして興味がなかったことも手伝い、母が見つけてきて紹介してくれた好青年と何の疑問もなく恋に落ち、そのまま結婚に至った。
このご時世、珍しい方だと思う。
ちょうどお見合い結婚よりも恋愛結婚の方が増えてきたような時代で、徐々に「え!?お見合い結婚なの!?」と驚かれるような風潮になってきた頃に、時代に逆行するかのような人生を歩んでいた。
ただ、結婚したからといって主人の実家に入って嫁として暮らしたわけではなく、私たち夫婦は主人が買ったマンションで2人暮らしを始め、やがて子どもに恵まれて、典型的な核家族となった。
私は専業主婦で、子どもたちを保育園に入れる事もなく、家で育てて幼稚園に通わせ、成長を見守った。お見合い結婚が減り始めた時代だったが、同時に共働きの夫婦が急増していた時代でもあったため、本当に有難いと思っている。主人には感謝しかない。
しかし、どこの家庭にも、ひとつやふたつ苦境が訪れるようで、子どもたちが小学生の高学年に入るころ、主人が脳梗塞で倒れた。
どうにか一命はとりとめたが、まだ46歳という若さで、その衝撃は計り知れなかった。
命あって良かったと安堵しながらも、心配と不安で夜もぐっすり眠れない日々が続いた。
しかも、運の悪い事に、後遺症が仕事に影響する程度に残ってしまい、リハビリをがんばっても回復の見込みが立たないとまで言われてしまった。
ちょうど昇進するかしないかなどと言っていた頃に倒れてしまい、入院を余儀なくされ、また体力が目に見えて落ち、その上ひどい後遺症が残ったため、働き方を変えざるを得なかった。
有難い事に主人が勤めていた会社は、そういったハンディキャップのある方も積極的に受け入れていたし、それなりのサポートをもってきちんと働けるような環境を整えてくれていた。
福利厚生は充実している方だった。
そして一応きちんとそれなりの保険にも入っていたため、ある程度の補助は受けられた。
ただ、主人の状態から判断するに、普通に働けると見なされ、生活費などの補助は一切受けられず、治療費の補助も、出してもらえるには出してもらえたが、自費負担もかなりの額となった。
こうなってくると、今まで通りの収入が見込めなくなり、逆に医療費がどんどん出ていく事となる。
主人が命あって、寝たきりなどの状態ではなくある程度普通に自力で生活できる事はありがたい。
命には何事も変えられないから、それだけは心から感謝しているし、良かったと思っている。
だがしかし、住宅ローンも残っているし、医療費がかさむし、反面で収入が減り、更に子どもたちがこれから中学生、高校生に進学していく上でますます費用がかかってくる。
この現実から目を背けるわけにはいかなかった。
子どもたちは小学生4年生と6年生。
共働きで学童に預けていたママたちもいたが、学童は3年生までだから、4年生になると皆鍵っ子となって学校が終わると一人で家で留守番をする事になる。
だから、うちの子たちも、もう親の手から離れ始めても良い時期になる。
今までは家に帰れば必ずお母さんが迎え入れてくれて、宿題のチェックや、その日あった事を話したり、習い事に送迎したり、至れり尽くせりな毎日だったが、それもずっと続けるわけにはいかない。
そろそろ親離れ、子離れしても時期尚早ではないはずだ。
私も、働こうかな。
色々考えているうちに、そんな事を思った。
主人が退院し、通院しながらリハビリに励み、無理ない範囲で仕事も復帰した頃、よく私に涙ながらに謝ってきた。
「これから子どもたちも大変な時に、本当にすまない」
そんな主人に「大丈夫。私も働こうと思っているの」と切り出す勇気がなかなか出なかった。
ますます申し訳なく思わせてしまうのではないか、自分の不甲斐なさを突き付けられたような気持ちになるのではないか、と勘繰ってしまったからだ。
そこで私は、とにかく就職先を見つけてから、主人に事後報告という形で働く宣言をしようと決めた。
しかしここからが大変だった。
ロクに就職活動もせず、父親のコネで入社した小さな会社で、大してやる事もないような事務の仕事を少しやったという就労経験しか無い42歳の専業主婦が、今から就職活動を始めてもどこも雇ってくれなかった。
そもそも就職とか、転職とか、正社員とか派遣とか、そういったものの違いすらよく分からず、しかし仕事というものは、どこかの大手企業で9時から18時まで、制服かスーツを着て、決まった時間働いて、月の固定給をもらう、というのが私の「仕事」のイメージだったので、そういったところばかり狙っていたのだ。
しかし当然ながら、そういった大企業での正社員の仕事に就けるのは、新卒の若者たちか、キャリアを積んできたバリバリの転職組のどちらかだった。
こんな、なんの能力もないようなおばさんは、そもそもエントリーする事すらできなかった。
かといって、私はアルバイトは学生さんがやるものだと思っていたので、これまた眼中に無く、特に飲食店でのアルバイトなんかは、地元の店舗に勤めようものならすぐに「あそこの奥さん、どこそこでアルバイトしてるらしいよ」とウワサになるだろうと思ったため絶対にNGだった。
時代錯誤かもしれないが、主人としても「ご主人の稼ぎだけじゃやっていけないのよ、きっと」と言われるのは嫌だろう、と想像したのだ。主人は特に何も言わないが、私なりの気遣いで、主人のプライドを守ろうと思った。
これは無理、あれは嫌、などちっとも進まない。
そこで私はママ友さんから情報を引き出す事にした。
バリバリキャリアウーマンのママさんたちとはあまり仲良くなかったので、基本的に主婦業をこなしながら、パートで働いているというママたちに色々聞いてみた。
よくランチやお茶に行くママは、我が家の事情も知っていて、色々と気遣ってくれていた。
主人が思うように働けなくなった事や、医療費がかかる事なども、当然予想できたようで、私が働こうと思っていると切り出した時に、何の理由も聞かずに「何か力になれる事ある?」と聞いてくれた。
彼女に、私にできる仕事ってどんな仕事だろう、と相談すると、色々教えてくれた。
私が世間知らずで社会に出て働いた経験も、就活戦争を経験したわけでもない事を恐る恐る告げると「珍しいけどうらやましいなぁ」と苦笑いしながら、残念だけどそういう人だとパートの仕事ぐらいしか就職先は無いなぁと言った。
「でも接客系はちょっと…」
そう言うと、彼女はちょっと考えて「じゃあ、バックヤード系は?人前に立たないで裏方でサポートするの。それなら誰に見られる事もなく、気を遣う事もなく、できると思うよ」と提案した。
バックヤード…ピンとこなかった。
彼女が言うには、例えば飲食店などでは接客する「ホール」と裏方で料理を準備する「キッチン」に分かれるという。その「キッチン」の事を「バックヤード」と呼ぶのだそうだ。
「あと、例えばアパレルショップの倉庫で袋から商品を出したり、しまったり、並べたり…とかね」
なるほど、それなら抵抗なくできそうだ、と思った。
ただ、問題がひとつあり、多くのアルバイトやパートは、飲食店ならばホールとキッチンどちらもできなければならないという事が多く、アパレルショップも、バックヤードの仕事もレジ打ちの仕事も、一緒くたに教わるケースが多いとの事なのだ。
「う~ん、リスクがあるねぇ」
と、そこで頓挫しかけたかと思われたが、彼女がひとこと「あ、じゃあ工場とかは?」と口を開いた。
「工場??」
「うん、工場なら徹頭徹尾人に見られるリスクなし!給料も悪くないって聞くけどな~」
しかし私は「工場勤務」というもののイメージが全く湧かなかった。
工場で働く女性なんているのかしら、工場って男性が働くものなんじゃないのかしら、そう思ってしまった。
ママ友はそんな私の考えを読み透かしたように「工場っていっても色々あるし、今は女性歓迎で求人かけてるところもあるんだよ」と教えてくれた。
聞くところによると、彼女は、今は地元のスーパーでパートの仕事をしているが、少し前までは食品加工工場でパートの仕事をしていたらしい。
子どもの習い事の時間とどうしても合わなくなって仕事を変えたようだが、その食品工場では女性がたくさん働いていて、作業も簡単なものが多く、とても働きやすかったという。
工場勤務のメリットは、比較的求人数が多いため、様々な条件を選んで絞り込みができるところとの事だった。
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例えば、子どもが家にいる時間は家にいたいから、午前中だけ働きたいというのも叶えられるし、土日休みを希望する事もできる。シフトを自由に組める工場もあるし、短期的に集中して沢山稼ぐ事もできるという。
服装や髪型が自由な工場も多く、身なりにそれほど気を遣わなくても良いところも工場勤務の特徴だそうだ。
「私は魚の加工食品の工場だったから、手が臭くなっちゃったけど、ブランド品の部品組み立てとか、そういう工場なら臭くなったりしないし、空調がちゃんと効いてる部屋でイスに座って作業する事もできるよ」とも言っていた。
また、単純作業や、簡単な作業が完全マニュアル化しているため、覚えなければならない事がものすごく沢山あったりする事もなく、不特定多数の客がやってくることもないため、臨機応変に接客する必要もない。
まさに、40代の主婦にはうってつけの仕事だった。
そんな魅力を聞いて、私は工場で働くのも悪くないな、と思うようになった。
彼女は本当に協力的で、その場でインターネットを使い、いくつか「これなんか良いんじゃない?」という工場勤務の求人情報をピックアップしてくれた。
帰宅し、吟味して、私は、平日の9時から17時半の勤務で、時給が1,250円で、交通費も工場側が負担してくれるというかなりの好条件のパート勤務の募集案件に応募する事にした。
そこは、カバンの部品取り付けの仕事だったが、結果は運良く合格。
家から電車で10分ほどの近い工場だったので、そこも良かった。
そして主人に満を持して、工場で働く事にしたと告げると、やはり申し訳なさそうな顔になったが、私が「そろそろ子どもたちも手が離れたし、いつまでもずっと家にいると、親離れ、子離れできなくなっちゃうし、私が稼いだお金で美味しいものでも食べに行きましょう」と言うと、そのポジティブな理由に納得してくれた。
かくして、私のパートタイム工場勤務が始まった。
最初は、いくら単純作業とはいえ、なかなか手元が思うように動かず、先輩方に迷惑をかける事もあったが、皆さん私よりもご年配でとても親切な方々で、手取り足取り教えてくれた。
少しずつ仕事を覚え、ベルトコンベアーの速さに負けないくらいスムーズに作業できるようになり、そうなってくると、大変さを感じなくなってきた。
9時から17時半まで、規則正しく工場へ出かけ、働き、家に帰ってから家事を片付けるという毎日に慣れると、なんだか生活に張り合いが出てきた。
自分の時間というものができたような気もして、今までは家の事、家族のことしかやってこなかった私が、初めて「自分のために時間を使っているな」と感じたのだ。
そして待ちに待った初任給を頂いた日。
月の中頃という中途半端な時期から始めたため、初めてのお給料は12万円だった。
大した額ではないかもしれないが、その12万円は、私にとって、確かな「給料」としてずっしりと重く感じた。
1ヵ月丸々働けば月に20万円程度の収入になるので、住宅ローンの返済にそっくりそのまま充てる事ができる。
これだけで我が家の家計はとても余裕のあるものになった。
これからは主人と協力して、家族を守っていこう、そう思った。
主人を頼って依存していた私が、初めて互いに支え合える存在になれた瞬間だった。
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